ロイリザSS73













まぶたの裏にかすかな日射しを感じた。
あたたかなまどろみの中で、彼女の長いまつ毛が揺れる。
くすんだ色調のカーテンの向こうで、また朝が始まろうとしていた。
まだ思考はぼんやりと曇ったままだったが、そこが自分の部屋ではないこと、そして
その理由について、リザは明瞭に記憶していた。
夜具にくるまっただけの裸身を自分で抱きしめながら、彼女は自らに確かめる。
(夢じゃない。良かった……)
むろん、夢などではなかった。
経験のない気だるさに身体じゅうを支配されていたが、その倦怠さえもが今の彼女に
は愛しかった。
もとより後悔などない。
すでに17歳のある日を境に、彼女は決して迷わない女になっていた。
そしてその固い決意の裏で、ためらいながらも消し去れなかった淡く切ない願い……。
それが、目に見えない何者かによって昨夜聞き届けられたのだった。








裸身にバスタオルを巻き付けただけの姿で、リザはその部屋に足を踏み入れた。
壁を手探りしてスイッチを押すと、光量をかなり抑えめにした天井のライトが灯り、
豪華だが落ち着いた雰囲気の寝室がそこに現れた。
クロゼットもキャビネットもマホガニー色で統一され、暗いグリーンの寝具と同系色
のカーペットが目にやさしい。
寝室だというのに壁にはずらりと本棚が並び、枕元のサイドテーブルには読みかけの
本が一冊、開いたまま置かれていた。
リザは少し拍子抜けしたように立ちすくんだ。
周囲から「女の噂が絶えない」と評される男の寝室には、ルージュの痕跡のあるグラ
スの1つ2つくらい、ブランデーの瓶とともに転がっていても不自然ではないと覚悟
していたのだ。
本棚をざっと見渡しただけで、そこには通俗小説などの類は一切なく、重そうな錬金
術書ばかりが置かれていることが分かった。
ふと、どこかで違和感を感じた。
……そうだ。この部屋の整頓された様子はどうだろう?
カーペットは清潔に掃除され、寝具もつい先刻整えられたばかりのように整然として
いる。ロイの手で行われたことでは絶対にない。
家政婦を雇っているのだろうか。それとも……。
いかに彼女が朝から晩まで彼と行動を共にしているとはいえ、彼にもプライベートな
時間は確実に存在していたのだ。
(そんなことに今ごろ気付くなんて……)
リザの頭には、彼の行動日程や書類の期限が完璧なまでに記憶されていた。しかし、
彼の私生活に関わる知識は完璧なまでに抜け落ちていたのだった。
ふと、蔵書のすき間に控えめに飾られた、幾つかの写真立てに気付いた。
何枚かはヒューズが一緒だったが、中に一枚だけ、見も知らぬ若い女が写っているも
のがあった。
途端に疎外感に似た感情を、彼女は覚えた。
否、それは彼女が初めて自分に認めた、女らしい独占欲だったかも知れない。
どちらにせよ言葉にならないところで、彼女はまだ自分の上司について多くの未知の
部分があることを悟ったのだった。
そっと本棚に歩み寄り、その女の写真をよく見ようとした時である。
突然、大きな手で目隠しをされて、リザは文字通り飛び上がった。


「……っ少佐!?」
「君にも女性らしいところがきちんとあるんだな」
振り向けば、バスローブを羽織ったロイが苦笑していた。
「……いえ……そ、そんなんじゃありません……!」
悪いことをした子供のように顔をそむけるリザを、彼は逃がさなかった。
白い肩をつかんで優しく引き寄せると、彼女の顔をのぞきこむ。
「……違うか?私のことをもっと理解したいんだろう?」
こくんと小さくうなずく細いあごのラインが可憐だった。
ロイはふっと微笑んで、彼女の耳に口を寄せてささやいた。
「母親の若い頃の写真だよ。嘘じゃない。これで安心した?」
「……はい」
言われてみれば、黒髪もきつめだがつぶらな瞳も、確かにロイと重なる要素があった。
明らかにホッとした声を出した自分をリザは嫌いだと思ったが、その素直な表情には
まだ年相応の少女らしさが多分にうかがえて、ロイは抱きこわしてしまいたい衝動に
かられた。
「どうせ今夜、君は帰れないんだ。もっと別の方法で私のことを知りなさい」
すると、リザは目に見えてあたふたとした。
「……あの……わたし、明日は朝が……」
「無粋な副官には出張を言いつけたよ。本人にはあとで口頭で伝える」
「……出張……わたし一人ですか?貴方は午後からきちんと……」
「いいや。私は今晩、視察で冷たい風に当たったせいで流行性感冒に感染したんだ」
「少佐……あの、いま思い出しました!祖父がわたしに荷物を送ってくれたそうなの
ですが、それが明日家に届くと……」
ロイは苦笑した。
「リザ、リザ……もう心配事をわざわざ探すのはよせ。何も心配なんかないんだ。明
日は家政婦も来ない。世界に二人きりだよ」
「あ……」
肩に置かれていた手が、いつのまにかタオルの結び目をそっとほどき、白い布はあえ
なく床に舞い落ちた。
裸身を恥じらう間も与えられず、彼女は抱き寄せられていた。
今まで何度となく受けてきたロイの抱擁に、今夜ははっきりと自分への欲望を感じて、
リザの腰の奥で熱く目覚めるものがある。
両手を頭上でからめ取られて、そのまま足がもつれ、二人はベッドへと倒れ込む。
シーツの上に組み敷かれたリザは、もう息をはずませていた。
細い肢体に不釣り合いなほどの美しい成熟が、男を魅入らせる。
何も鎧っていない彼女は気の毒なくらいに幼く頼りなげで、ロイは心底いとしいと感
じながら上から笑いかけた。
「せっかちすぎるかな」
「……わかりません」
顔をそむけるようにして、リザはロイの視線に必死で耐えていた。
「あまり見ないで……わたし、こんな時のルールなんて知らないんです。あのまま、
暗がりで襲って下さった方がよかったのに……」
涙声になる寸前の彼女に、ロイは当惑を感じた。
愛と紙一重のやましさなど初めてだったかも知れない。それなりに真摯だったはずの
過去の恋をいくら思い返しても、そんな当惑には覚えがなかった。
彼女の前髪を梳き上げ、ロイはつとめて優しく言った。
「何もルールなんかない。ただ、偽らずにいてくれたらそれでいいんだ」
リザの大きな瞳が、うっすらと涙を帯びて正面から男を見返した。
「死にそうです……好きすぎて」
「……ありがとう。十分だよ」
溶けそうに甘いキス。
焦れるほどゆっくりと、胸と胸が重なり合う。
ああやっとたどり着けた……と彼らは同時に感じていた。
触れあう肌のぬくもりが、その夜彼らをしたたかに酔わせていった。

















音をたてないように、そっと寝返りを打つ。
同じシーツの向こうで、彼女が身を捧げた男はうつ伏せに眠っていた。
ふと、リザは急にどぎまぎする。
執務室の椅子に反り返り、ロイがうたた寝をしている図はもはや見慣れた光景となっ
ていたが、これほど近くで寝顔を見つめるのは初めてだと気付いたせいだ。
彼女のためらいがちな視線の先で、黒い瞳はかたく閉じられていた。
額は半分ほどまくらに埋もれ、すっきりと伸びた鼻梁には一筋の髪がかかっている。
彼は間違いなく童顔の人間だったが、朝の顔は少しやつれて血色も悪く、昼間よりも
ずっと大人びて見えた。
そして落ち着いた寝息を繰り返す唇が、昨夜は自分の肌のあちこちに熱く押し当てら
れていたことを思い出し、リザは再び胸の高鳴りを覚えた。
肩のあたりには、幾つかの傷跡が散っている。
彼女の知らない、彼の過去の戦いの残滓。
それさえも今は、愛する男の一部だった。
そして、彼の最たる武器である両手は……シーツの上にただ投げ出されてあった。
彼女はその大きな手をじっと見つめた。
関節の目立つ、長い指をもった手。
ひとたび緋色の紋章をまとえば、それは一国を灰にできるほどの凶器と化す。
しかし、その同じ手が昨夜、どんなに揺るぎなく彼女の身を支え、どんなに優しく彼
女を愛撫していたことだろう……。
彼女はそして、目前に迫った出征を思った。
そう。この手はもうすぐ人間兵器となる。
(こんなにも愛しい手が、人を殺めなければならないのか……)
想像するだけで、リザは暗雲が心を覆ってゆくのを感じた。
傲慢に見えて本当は誰よりデリケートなロイが、戦場の矛盾に苦しむことは目に見え
ていた。そして、それでも彼には立ち止まっている暇などないこと、奥底に忍ばせた
野望のために「狗」の汚名を安んじて着るほかないことを、彼女は痛いほど知り抜い
ていた。
けれど今……やがて多くの流血と英雄の虚像を背負わねばならない手は、すべての重
責と緊張から放たれて、彼女の前に投げ出されていた。
赤子のように無防備なその姿に、いつしかリザの頬を涙が伝っていた。
ようやく彼女にも分かったのだ。
女になるということ。
それは男の眠りと、その無防備な手を預けられるということだった。
(わたしに守れなくて、誰に守れるというのだろう……)
昨夜、彼女が夜の底で何か愛しむべきものをロイから得たのだとしたら、それはその
手を支えてやれる資格ではなかったか。
この手を守るためになら、何に対しても、誰に対しても自分は引き金を引くだろう。
彼女はもう迷う余地さえ見いだせなかった。
(そうだ……私にはもう正義などいらない。それがこの人を守ることになるのなら)
シーツに吸い込まれる涙のように、その決意は自然にリザの心に浸みていった。
鼻梁にかかる黒い髪を白い指先がそっとはらいのけた。
まるで神聖な誓いをするように、リザは自分からロイに口づけた。


ぱち、と黒い目が開いた。
咄嗟に勢いよく頭をのけぞらせて、リザは赤面する。
「……お、起きていたんですか?」
「いいや、君のキスで起こされた。朝から役得だな。夢の続きをする?」
いつのまにか背を抱かれ、リザの身体は再び彼の下に組み敷かれていた。
ロイの手が肌の上をすべって、下腹部で止まる。
「まだ、痛い?」
健気に首を横に振る彼女がいとおしくて、ロイはそのふくよかな胸に顔を埋めた。
「……男は業が深いな。君を離さないための通過儀礼なのに」
その言葉の端々には、すでに自分の身の一部となった女を気遣う男の余裕があった。
満ち足りた空気をそこに感じ取り、リザはふと深呼吸をする。
「ところで、そろそろ教えてもらおうかな」
「……は?何をですか?」
ロイは意地悪そうな顔で彼女の目尻に残る涙をつついた。
「これこれ。何が君を朝っぱらから感激させたのか知りたいね」
「……どうして感激だと思うんです?」
「……まさか後悔の涙じゃないだろう?」
「それが、実は……」
みるみる心配そうに変化するロイの顔を観察して、リザは笑い出した。
その表情から切羽詰まったものが消えていることを、ロイもまた見て取っていた。
愛を疑わずにすむ自信。
そんな静かな強さを、この少女に見るのはもちろん初めてのことだ。
「リザ」
「はい?」
「……付いてくるか?」
「……ええ」
どこまでも、と言いかけた唇を、ロイは皆まで待ちきれなかった。
柔らかな光の差し込む寝室は、どんな荘厳な寺院より彼らの約束にふさわしかった。

















「はい、ヒューズ……っと、なんだお前か。今頃どうした?……なんだよ、どもるな。
うん……うん……。出張?リザちゃんだけ?……ほほ〜う効果テキ面だったな。いや
こっちの話。……ああ、簡単だよ。ちょうどぴったりの事件もある。……いいぜ。他
ならぬ親友の恋路のためだ、ニセの報告書をでっち上げるくらい訳はない。……ああ。
……でもな、ロイ。たった一日でいいのか?世の中にはこういう時のために、流行性
感冒やら親戚の葬式やらが存在してるんだぜ……?」


口笛で結婚行進曲を吹きながらキッチンに戻ってきたヒューズを、グレイシアは首を
かしげてみつめた。
「なあにマース?楽しい電話だったのね」
エプロン姿で洗いものを続ける彼女を、ヒューズは後ろから抱きしめる。
「楽しいさ。ロイのやつがようやく優柔不断とおさらばしたんだ。かっわいいよなぁ、
慌ててどもったりしてさ」
不自由な姿勢で、それでも器用に手を休めず、グレイシアは微笑む。
「また何かあなたのお節介が効を奏したのね?」
ヒューズはくすくすと笑って答えた。
「料理で言ったら、俺は魔法の調味料だよなぁ。こう、ぱっぱっぱっとな。表にゃ出
ないが、最後に味をくつがえすのは、俺みたいな隠し味なのさ」
泡立つスポンジを握りしめたままで、彼の未来の妻はけらけらと幸せそうに笑った。
「あなたって本当に可笑しいのね。いいわ。私、料理のたびにあなたをふりかけるわ」
「ははは、そうしてくれ」
「マース……気をつけて行ってね」
「ああ……死んでも無事に戻るから」
「……死なないで戻って」
黒髪の親友よりは経験不足だが、その分大人びたキスを、ヒューズは恋人に返した。
この子は偉大なキッチンの女神だな、と彼はひとりごちる。
(そして、ロイの女神はあいつのために引き金を引く女神だ……)
お互い、これ以上ないくらいの似合いの相手を手に入れたもんだ……とヒューズは苦
笑する。
それは迷宮にも似た人生の中で、彼らが正しい道を歩んでいる証ではないかと、彼に
は思えてならないのだった。


窓の外で、家々の灯りが1つ消え、また1つ消えてゆく。
夜は、これから始まろうとしていた。
(この一夜のうちに変わるものだってある……)
暗い空のずっと向こうで、ゆっくりと回転する何か大きなものを感じて、ヒューズは
無言でカーテンを引いた。









Fin.








最後までお付き合い下さいまして、ほんとうにありがとうございましたv
サイトを立ち上げた頃から考えていた話だったので、なんとか形になって
本当に嬉しいです。ちょっとすっきりしました(笑)
表に置いていることには賛否あるかと思いますが、心理描写を主に書きた
かったので本人にはR指定という意識はほとんどありません。
未熟な表現で悲しいのですが、リザの「守るべき人」の決意、そして最初
の「付いてくるか?」の問答が書きたかったんです。(2度目以降は「何
を今更」としか言わなくなったリザたん/笑)それって事実上のプロポー
ズじゃなかったかと思うんですよねv
読んで下さった皆さまに感謝いたします。


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