ダーク・ホース
気が付けば、総統執務室の床に自らの影が長く伸びていた。
また一段と日暮れが早くなったようだ。
(む……そうだ。)
ふと思いつき、私はめったに用のない部屋の隅のキャビネットを開けた。
年とともにいっそう気まぐれになった私が、いつそれを思い立つかも定かでは
ないというのに、スライスされたレモンの小皿はやはりそこに整然と用意され
てあった。
無論、それは今朝がたに真新しく切られたものであって、昨日の分がそのまま
残されていたなどということはない。
几帳面なシュトルヒに、そうした怠惰な手ぬかりがあった例しはなかった。
美しい断面をした果実をそっとカップに浮かべれば、濃く入れすぎたティーは
たちまち褐色から琥珀の色へと変幻する。その移り変わりを楽しむうちに、あ
の女の瞳を思い出したのは、あながち偶然とも言えまい。
なぜなら、そう。
この部屋にレモンを運んでくることは、近いうちに彼女の仕事になるはずであ
ったから。
怖いかね?と尋ねた私を、睨めつけるでもなく、無視するでもなく、水のよう
に味も香もない眼差しで見つめた彼女。
追いつめられた猫のように、爪を出してくれたならまだ可愛げがあるものをと、
その時は思ったものだ。
今思えば、そんな余裕すらなかったのであろう。
明らかに睡眠をとっていない赤みを帯びた目は、彼女の上司……マスタングの
生存を示すあらゆる証拠を求めて、部屋中を探っていた。
彼女のかたくなに閉ざした鎧戸がきしみ始めたのは、やはり彼の名を口にして
からだ。
あの若者のどこに惹かれるかね?
そう尋ねた途端、沈黙した水面にさざなみが立ったのを、私は見逃さなかった。
ふと微笑みかけると、理解に苦しむといった表情を向けられた。
私とて伊達に年を取っていやせんよ。君らの仮面を見抜くくらいは容易い。
そう諭すと、彼女は平然とつぶやいたものだ。
……人間でない者の能力でしょうか。
少しく驚いた。
やはりあの若者に付き合うだけのことはある。大した度胸だ。
そうかね。そこまで見通されているのなら、お互い仮面は不要だと思わんかね。
何も、君らを取って食おうという訳ではない。
あの場ではあれが、私に示し得る限りの友好の架け橋であった。
ただし、このような事態の初日から彼女がそれを諾するはずもなかったが。
……お言葉ですが、軍務の外でどのように利用されるのも私はごめんです。
ほう。君の軍人としての忠誠心はどこに?
愚問です。もとより軍に忠誠など誓っておりません。
その清々しいまでに明快な回答ほど、私を愉快にさせた出来事もついぞなかっ
た。高らかに笑う私のかたわらで唖然としているシュトルヒが、何とも哀れだ
ったものだ。
顔に出てはならぬと自らを諫めつつも、私にこのような娘があったらと願わず
にはおれなかった。
ホークアイ中尉とやら。
はい。大総統閣下。
努めてにこやかに、私はその日最大の爆弾を投下した。
君らは実にお似合いだな。
今度ばかりは絶句した彼女が、それでも私が「君ら」と呼んだことの意味を冷
静に悟ったことは、すぐに察せられた。
マスタングの無事を知り、彼女がもはや隠しきれぬ安堵の表情を浮かべるのを
しばし楽しんでから、私は退出をうながした。
そうだ。それでよい。まずは疑問符で頭をいっぱいに満たして帰るがよい。
どのみち君らは私と父上、二通りに利用されることになる。
だが……と、私は彼らの知るべくもない場所で進む、2つの暗い陰謀に思いを
馳せる。
だが、この作り物の心臓にかけて誓おう。
私の全意思をもって、君らにこの国の未来を押しつけてみせる、と。
私は琥珀の液体を口に含む。
とうに熱を失ったそれは、ただ果実の香をただよわせる色水として、私の体内
に流れ込む。
それはもはや、人造の脳を癒しもしなければ逆撫でもしなかった。
悲しむべきことに、私に害を成せるものはわずかしかない。
その分類のうちで最大のものが「老い」だとは、父上を怨むべきか、それとも
むしろ感謝すべきなのであろうか。
いや。
これでよいのだ。すべては順調に運ばれている。
私はこの国を自由にする権利をあの若者に明け渡してやり、琥珀の瞳の女はや
がてその良き妻に納まるだろう。
父上の野望は潰え、私はいつか「時間」に淘汰されるだろう。
私のささやかな望みを、誰であれ知らずともよい。
そして、やがて訪れるその日……
私の噛みしめるであろう勝利を、誰も知らないでよい。
- FIN. -
…という訳で、私なりに11月号を消化した結果でした。
ロイとリザの生殺与奪件を握りながら、ほとんど父親
みたいな思いで彼らを眺めている大総統さまです。
実は彼、リザにはとても優しいのではないかと……
いつか「行きなさい、彼のもとへ」なんて言ってくれ
ないかなー。そうだったらいいなー。
妄想できるのも今の内かも知れませんけどね(笑)
この話と連動して大総統考察(自らに憤怒する男)を
Talk部屋に置きましたので、興味おありの方はそちらで
詳細バージョンをお楽しみ下さい。(→こちら)
