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廊下に出るや否や、彼らは互いにひじでつつき合い、くすくすと忍び笑いをもら
し合った。
「おい……すっげぇな、あの女!」
「少佐のあの顔、見たかよ?俺あんなにスカッとしたの任官して初めてだよ」
「いやー驚きだ。セントラルの街じゅう探したっていねぇよ、あんな美人」
「ありゃきっと不感症だぜ。くく……たらしの少佐にはお気の毒なことで」
「ははは、だよな!狙ってたに違いないもんなー」
「でも俺、気に入っちゃったよ彼女。凛々しくてイイなぁ」
「うん、相手にされなさそうだけどなんか惚れちゃいそうだ」
「しっ!お前ら聞こえるぜ。食堂で話そう食堂で」
こそこそとした談笑の声が廊下を遠ざかってゆく。
ドアが閉まってたっぷり2分のあいだ、彼らは微動だにしなかった。
ついに耐えかねたようにロイが吹き出し、それはすぐに彼女にも伝染して、2人
はしばし転げるように笑い合った。
「あっはっは……こんなに愉快だったのは久しぶりだよ。君の名演技にはほんと
うに脱帽するね。見たか?奴らの惚けきった顔!あっはっは……これで何もかも
うまくいくよ」
「ひどい人ですね、そんなに笑って……ああでもわたし、本当に胃がねじれそう
なくらい緊張したんですよ!」
「さすがだね、リザ。君は何でも卒がないな」
ロイは自然な動作で彼女を引き寄せ、有無を言わせず抱きしめた。
「……もう」
ためらいがちに彼の背に手を回したものの、彼女はたしなめる口調で言った。
「執務室でこんなこと……だめです」
「なぜ?じゃあ仮眠室のベッドでならいい?」
素直に頬を染めるリザはあまりに可憐だったので、ロイは危うく暴走しそうにな
る自分を半ば本気で食い止めた。
「ははは、冗談だよ。でも本当に、うまく滑り出せて良かった」
「だといいのですが」
「上出来さ。これで彼らは騎士道精神にかられて、君に一目置くだろう。私はせ
いぜい君の前で鼻の下を伸ばして、手ひどくやられていればいいのさ」
リザは上目遣いに、いたずらっぽく笑った。
「後悔しないで下さいね。わたし、容赦しませんから。……あなたに迷惑をかけ
ないためなら」
「受けて立つよ。しかし……さっきのはちょっと痛かった」
途端にリザは心配そうに眉を寄せた。
「やっぱりそうですか?」
「うん。埋め合わせが必要だな」
ロイはつ、と身を離し、リザの顔をまともにのぞき込んだ。
底の厚い軍靴のせいか、彼らの身長差はわずかに縮まったように感じられたが、
それは図らずもキスをするのにちょうど良い高さだった。
「改めて、入隊おめでとうエリザベス」
「あの……」
副官の仕事ってまさかずっとこんな……とリザは聞きかけたのだが、ロイはお構
いなしに唇を重ねてきた。
強引な男は大嫌いのはずなのに、彼女はロイの口づけを拒めたためしがない。
2度、3度と降ってくるそれは、強引だが明らかに、彼女のペースに優しく合わ
せられていたからだ。
鼓動が跳ね上がり、最後にはいつも何も考えられなくなってしまう自分が、リザ
は恐かった。このまま放っておいたら、わたしはどこまで自分を許してしまうの
だろう。
「よく似合うね。君に青が似合うのは知っていたが」
そっと目を開ければ、ロイはしげしげと彼女を観察していた。
彼らが初めて知り合った夜、自分の着ていたドレスがブルーだったことを思いだ
し、リザはふと遠い目をする。
「しかし、その髪はいただけないな。なぜ切った?」
「だって、長いと動きづらいですし……少しでも、男性の世界に自分を近づけな
くてはなりませんから……」
「では准尉、君に任官して最初の命令を与える」
ロイが急に上官としての口調に変わったので、リザはびくりとして居住まいを正
した。
「はい、少佐」
「まず、何より優先して髪を伸ばしたまえ」
「……はい……了解いたしました」
困惑して不承不承な声になったリザに、ロイはかわいくて仕方がないというよう
に笑いながら、ようやく身を離してデスクに戻った。
少なからずホッとした表情で、リザは着衣の乱れを直した。
「さっきの話だがね。本当に、ここでは何をしてもいいと覚えておきたまえ」
立ったままでデスクの上の書類にサインを入れながら、ロイが平静の声で言う。
「どういう意味です?」
「今日のところはうまくいったが、嫌な目に遭うことだって追々あるだろう。軍
は完全な男性社会……私にも想像はつかないが、女の君にとって不都合なこと
など幾らでもあるはずだ」
「ええ、承知の上です」
「だがね、この部屋だけは私の支配下だ。軍律も通用しない。盗聴の心配もない。
何を言っても質に取られない。だから……もし君が軍部内で困ったことに遭遇
したら、ここに逃げてくればいい。私にぐちをこぼせばいいんだ。分かった?」
「……はい」
「もちろん、他の人間が同席している時はだめだ。あくまで我々が2人でいる時
だけだが……この部屋が、君を守る砦になれば幸いだ」
この人はどこまで優しいのか……と、リザは思わず唇をかみしめる。
けれど、その優しさの出どころ……自分に向けられたどのような感情がロイをそ
うさせているのか。それについてはまだ、彼女は尋ねる勇気を持たなかった。
「……有難うございます、マスタングさん……」
「せっかくだから階級で呼びなさい」
「あ、すみません……マスタング少佐」
「その調子だよ、リ……ええと、ホークアイ准尉」
「あなたも早く慣れて下さい」
くすくすと笑うリザに書類を差し出して、ロイも苦笑いをする。
「急務だな。ほら、今日の初仕事」
「人事部ですね?了解しました。行って参ります」
しなやかな敬礼を残し、書類を抱いて俊敏に歩き去るリザは、初めて会った頃よ
りもずっと自信に満ちて見えた。
ロイは感慨深い思いでその後ろ姿を見送り、小さく口笛を吹いた。
ぱたり、と丁寧に閉められたドアを、ロイはしばし眺めるともなく眺めていた。
(さて……これからどうしたものかな)
知らず知らずもれた嘆息に、彼は自分で驚く。
おいおい、何が不満なんだ?あんなに手元に置きたがっていた子をまんまと副官
にできたっていうのに。
(不満……と言うよりは、不安、が正しいかな)
妙な胸騒ぎを冷静に分析してみてから、ロイは椅子に腰掛け、回転させて背後の
窓に向き合った。
その漠然とした不安は、どうやらリザとのプライベートな関係に由来していた。
実際のところ、彼女をどう位置づけたものか、ロイ自身にもまだ判然としていな
かったのだ。
恋人、と呼ぶにはいささか足りないが、かと言って友人でもなければただの部下
でもない。急にできた妹、というのが一番近いような気もするが、キスを交わす
仲なのに妹だというのも虫が良すぎるかも知れない。
(どこで一線を引くか……だな)
彼女の祖父である中将は、ことある毎にロイに縁組みの話を持ちかけて彼を苦笑
させたものだが、当のリザが極端にその話題を嫌うこともあって、当面のあいだ
はその問題はお預けの様相であった。
しかし……困ったことに、彼女の心の中はロイに筒抜けだったのである。
変なところで意固地な彼女は、自分自身ではまだそれを認めていないのかも知れ
なかったが、彼女がロイに対して傾けている感情は、恋の他の何物でもなかった。
それを分かっていて部下にして、尚かつコントロールしなければならない自分は、
ほとんど親兄弟以上に責任重大だな……と彼は思う。
そしてさらに事を複雑にしているのは、他でもない彼自身の感情であった。
好きか?と問われれば間違いなく好きだったし、彼女が別の男の副官になったら
間違いなく不愉快だろうとは思う。でも、それは主に保護欲から出ている反応で
あって、正直に言えば自分はまだ彼女を女として意識していない……というのが、
ロイの現在の分析であった。
ふと、彼女の任官にヒューズが反対していたことを思い出す。
ああみえて非常に怜悧な頭脳を持つ親友は、考えた末にこう予測した。
リザがいくら男勝りの強靱な神経を持っていたとしても、最後の一線では任務と
恋とを区別しきれず、結果的にロイの足を引っ張るだろう、と……。
(そうそう。そしてこうも言ったな……)
「お前の方だってわからん。そんな可愛い子、万が一本気で惚れちゃったらどう
するんだよ。ただでさえ若い上司と副官なんて胡散臭いんだぜ。お前、指一本
触れませんなんて誓えるか?」
(ふん、誓えるものか馬鹿。誓う気もない)
親友の言葉を思い出して毒づけば、それが先刻の分析と矛盾していることに気付
く。どうやら、論理の刃こぼれは自分の方にあるのだろうか?
どうしても彼女を他の女とは区別して扱いたくなるのは、初めて会った夜に早々
と自分の野心を見抜かれてしまったせいだと、ずっと信じてきたのだが。
それともこの先、自分と彼女が更にままならぬ仲になる未来でも、用意されてい
るというのだろうか。
窓越しの日射しはあまりにも心地よく、ロイはどうしても深刻な思いに浸れなか
った。難題を乗り越えて彼のもとにやってきた少女は、どう転んでも幸せの種に
なるとしか思えなかったのである。
(まあいいさ)
彼女のあのかわいらしさを、せっかく至近距離で堪能できる特権を手に入れたん
だ。今、その特権を駆使して何が悪い、ヒューズ。
それにしても……と、先刻のあざやかな茶番劇を思いだして微笑むうちに、ロイ
はついまどろみに捕らわれていった。
やがて執務室に戻ってきたリザは、一向にノックの返事がないことをいぶかしん
だ。
新たな書類の束を抱えつつ、そっとノブを回してみれば、やわらかな日射しの降
りそそぐ部屋で、「上司」は幸せそうにうたた寝をしていた。
思わず笑みをこぼしたものの、すぐに自分の立場を思い出した彼女は、一転して
手厳しい「副官」の顔になった。
しかし……どうやって起こそうかと周囲を見回すうちによみがえったのは、先刻
のロイの言葉だった。
そう、逃げてきていい、と彼は言ったのだ。
それは裏を返せば、彼にとってもこの部屋だけが司令部で唯一の安息所であるこ
とを意味していた。
やがて軍部そのものを敵に回すことになるロイは、その恐ろしいまでの野望を自
身に封じ込め、すべてを何喰わぬ顔の下に隠していた。
そんな彼が、司令部にあってただ一つ気を緩め、自然体で過ごせるところ。
それがこの部屋なのだと、あの言葉は物語ってはいまいか?
リザはふと肩を落とし、優しく嘆息した。
分けてくれたのだ。
彼は、その大事な場所を、わたしに分けてくれたのだ……。
彼女は片隅のデスクに歩み寄ると、一人で書類の片づけを始めた。
分からないところは後で彼に聞こう。
少しでも早く、仕事に慣れるように。少しでも多く、彼の重荷を減らすことがで
きるようにならなくては。
わたしも今日から、この部屋の住人なのだから。
こうしてその日、彼らの執務室は新しい機能を与えられた。
表向きは、有能な佐官とその才色兼備な副官の活動拠点として。
そして実際には、周到な政治劇を繰り広げる2人の、秘密の楽屋裏として。
- FIN. -
…という訳で、「夜は瞬膜の…」の続編というか、後日談です。
まだ、いくとこまでは行ってません(笑)キス止まりの彼らです。
リザたんもまだ初々しくって、へたれな上司の襟首をつかんで
デスクに引き戻す、なんてことはできてません。思うに彼女、だんだん
「演技」と普段の区別がつかなくなってきちゃったのかもねー(笑)
この時点で22、3と18歳くらいですか。現時点ではそんなに年齢差は
感じないですが、でも5歳差って実はけっこう大きいので、やっぱり
ロイアイ初期はロイの方がリザを守るというか、かばう感じだったと
思うんです。それで、今回またも美味しい所を持って行かれた、と(笑)
読んで下さって有難うございました☆ご感想など頂けますと感激ですv
