ブライダルトレーニング
片すみのキャビネットを開ければ、そこはまさに別世界だった。
レモンを盛った小皿をわきへ置いて、リザは今日も思わず目を見張る。
街のちょっと気の利いたティールームでさえこうはいかないというほどの、多種
多様で贅をつくされた紅茶器具の数々。
国家の中枢を一手に握る人物の執務室に、まさかこんなスペースが用意されてい
ようとは誰も思うまい。
もっとも部屋の主はたいそうな気まぐれで、いつここを開けるかも定かではない
という話だったけれど。
でもとにかく、補佐官として先輩の立場である三白眼の男から、朝の日課として
レモンを乗せた盆を運ぶように申しつけられた時には、嫌が応にも張りつめた神
経が一気にゆるんだものだ。
あの悪夢の異動劇から一週間…。
ロイのためならどんな過酷な状況にも耐えて見せようと、精神バリアを幾重にも
張り巡らせて完全武装で臨んだリザがまず初日にその目で確認したのは、この国
の元首がちょっとした紅茶マニアだという事実だった。
以後数日が経過しようとしていたが、これと言って陰湿な空気も感じられず、ま
してやハラスメントに該当する仕打ちなど影も形もないなどとは、かえって気勢
を削がれることこの上ない。
何かにつけて「その前にお茶を」と宣言し、彼女がためらう間にも自分で立ち歩
いてティータイムの準備を始めてしまうブラッドレイに、さてはこれは懐柔策の
一端なのではないかと、リザは本気で疑惑を抱きつつあった。
キャビネットの中にレモンを仕舞い、今度は別の戸棚にずらりと並べられた茶葉
の缶を点検する。
すべて等しく金色のキャニスターに入れられた、別名「大総統コレクションα 」
である。
なぜα(アルファ)なのか、βも存在するのかといった疑問には誰も答えられる者
はなかったが、噂によればβは大総統官邸におけるコレクションであり、希少価
値の茶葉の多くはβに集められているともいう。
張られたラベルにはそれぞれ呪文のような茶葉名が記されており、リザに分かる
のはそれこそ「名前が違う」ということのみだったが、隻眼の独裁者はすべての
特徴を個別認識し、その時々の気分やシチュエイションに応じて茶葉を選び分け
ているとかいないとか。
三白眼の男はさも得意げにそう語ったものだ。
ともあれ、リザにとってはすべてがどうでもいい話ではあった。
彼女はロイの野望が叶うことを信じて疑っていなかったし、ここで補佐官名目の
人質を務めることなど暫定的も暫定的、一時の休息にすぎないと確信していたか
らである。
しかし、目に見えないものも含めて「悪意」を放たない事物に対しては、彼女の
良心は自発的に攻撃を仕掛けることを彼女にためらわせた。
そんなわけで、例えそれが未来から見たときに偽りの安寧であったとしても、今
のリザには進んでブラッドレイに牙をむく理由は見あたらなかったのである。
「おはよう、ホークアイ中尉」
ほら、噂をすれば影だ。
「おはようございます、閣下」
「今日はまた素晴らしく晴れたものだな」
「そうですね」
「うむ…今朝の仕事始めは軽やかなミントミルクティーでゆこう」
そらきた、とリザはまたも胸中で肩をすくめる。
ここで優しげな苦笑が出るようになってはロイに申し訳が立たないと思っている
以上、八割方はわざとである。
しかし、こういった状況が2ヶ月も3ヶ月も続くようなら、そのうち油断して自
然に笑みがこぼれてしまうこともあり得るかも知れない。
やはりこれは懐柔策の一端なのだ。危ない危ない。
「…あの、どちらの缶でしょうか」
「おお、気にせずともよいのだよホークアイ中尉。朝は忙しかろう。年寄りにと
ってはボケ防止にもなるのでな。私が淹れよう」
「はぁ…申し訳ございません」
ボケどころか寸分の隙もない身のこなしで、今年60歳になるという独裁者はいそ
いそとモーニングティーの用意を始めた。
リザはすぐに我関せずという表情を作ったが、ふと気付けばこの一週間、ただの
一度もお茶くみをさせられていないという事実に思い至り、内心でわずかに首を
かしげた。
今となってみれば、リザにとってブラッドレイは大した脅威ではなかった。
真の黒幕がもっと上にいると知った以上、この男はただの下っ端で、通過点でし
かない。
そしてロイからの話を分析すれば、この男は一度私たちを見逃しているのだ。
いや、正確に言えば真意は不明だが、あの妖艶な女ホムンクルスとの死闘に立ち
会いながら最後まで仲間を助けなかったという事実は、じゅうぶんに「見逃した」
と表現するに足るのではないか。
さらに、続く入院期間にもその手は下されず、挙げ句には自身の秘密をロイに明
かしてみせたブラッドレイ……。
「試されている」というロイの結論が正しいとすれば、自分がその足をひっぱる
わけにはゆかないのだ、とリザは肝に銘じていた。
むしろ敵味方の照準をより良く合わせるためにも、こうして至近から観察できる
機会を生かし、ホムンクルスに対する理解を深めておくべきなのかも知れない。
そのためにはやはり…こちらも懐柔策に乗り出す必要があるか。
そんなことを考えていたせいだろう。
辺境の兵力配備に関する面倒な書類をようやく読み通し、むむ…と伸びをしたブ
ラッドレイが今日2度目のティータイムを宣言した時、ふとリザの口をついて出
たのはこんな言葉だった。
「閣下…今度は私におまかせ願えませんか」
自分で自分の肩をぽんぽんと叩いていたブラッドレイは、む?と不思議そうな表
情をリザに向けた。
確かに「思いやり」と受け取られても仕方のない状況ではある。
妙な気恥ずかしさを感じ、あわててリザは言葉を足した。
「いえ…補佐官たるもの、閣下に紅茶をお淹れすることも任務のうちと心得ます
ので……」
眼帯でない方の目がゆっくりとなごみ、国家元首はにっこりとリザに微笑んだ。
「そうかね。君をお茶くみにアゴでこき使ったとあらば、マスタング大佐にいら
ぬ戦いを挑まれそうなので遠慮しておったのだよ。気遣い、ありがたく頂戴し
よう」
「は、はい!」
思いのほか嬉しそうな声になってしまったのが自分で気に入らない。
が、それよりも問題なのは当の紅茶だ。
何十と並ぶ同じ茶筒のうち、一体どれを選ぶべきなのだろう…。
「あの…もし閣下のご所望の葉がありましたら…」
「よい。口を出せば君の好意に水を差す。任せようではないか」
「…はい…」
リザは戦場でも滅多に感じなかったどぎまぎ感を覚えたが、そこは天才の名を冠
するスナイパーである。
カッとひと睨みで目標を定めると、すみやかに一つの茶筒を手に取った。
あとはお湯……魔法瓶にまだ残っているだろうか?
快諾はしたものの、実はブラッドレイの胸中には複雑なものが渦巻いていた。
この一週間、人質の立場をわきまえつつ淡々と任務をこなす彼女を微笑ましく見
守っていた結果…どうしても彼はあることに気付かざるを得なかったのである。
ブラッドレイは横目でじっとリザの手元を眺めた。
まず、茶筒の蓋を銀のティースプーンでゴリゴリとこじ開けたので心底驚いた。
質の良い銀製品は思いのほか柔らかだ。
そんな扱いをしたら破損することくらい想像がつかないか。
それともああ、佐官の執務室備品に銀製品はもったいないとケチった報いが今返
ってきたとでもいうのか。
さらにそのティースプーンで茶葉をすくいポットの中に落とすさまは、一見てき
ぱきとして見えるが実はかなり乱雑な感じがする。
そうだ。茶葉への愛が感じられないのだ。
しかもなんと、そのケトルの湯はまだ煮えるか煮えないかではなかったか?
軍部のガス代の節約まで考えてくれているのならそれも愛国心と言えなくもない。
が、彼女の場合はどうみても合理性重視のせっかちか、味覚における不感症あた
りを疑いたくなるのが悲しいところだ。
さらに慄然とすることには、あまりにも勢いよく湯を注ぎすぎである。
ティーポットに何か恨みでも持っているのだろうか?
そして、かたわらのティーコジーの存在など目に入っていないかのように、彼女
は猛禽を思わせる視線で砂時計を凝視していた。
ブラッドレイはふと、背後にひかえるもう一人の補佐官に小声で問いただした。
「聞くがシュトルヒ、あの茶葉は確か…」
「は。北部山地の大総統献上茶農園グランドセレクション、春積みファーストフ
ラッシュ "ザ・マスカットフレイバー" であります」
「やはり…」
国軍直轄の限定茶畑で、それも最高級のファーストフラッシュだ。
シンから極秘に輸入した茶葉を錬金術で改良して作らせた、最強かつ最凶にデリ
ケートな極上ダージリンである。
葉の量。湯の温度。蒸らす程度。
どれ一つあやまっても、その美しい色と馥郁たる香りは失われてしまうだろう。
うろたえている場合ではない。
ブラッドレイは意を決した。
「ホークアイ中尉…。たいへん心苦しいのだがね、あとは私が続けよう」
「いえ、あと1分45秒ほどでお飲みになれますが、何か?」
「うむ…そうだな。君が時間に正確なのは恐らく職務上有利なことだろう」
「…?」
「いや、褒めておるのだよ。しかし実は中尉…西棟へ使いを頼みたいのだがね」
「は…あの、ただちに、でしょうか」
「そう。急用を思い出したのだ。今すぐにこの書類を届けてほしいのだよ」
「…了解いたしました。それで、西棟のどちらまで伺えば…」
「3階の奥の角部屋までだ」
「……閣下!?」
「もちろん、そのまま昼食をとってきてかまわんよ」
穏やかに微笑むと、ブラッドレイは机からさほど厚みのない書類の束を取り上げ、
何やら余白に書き込みをしてから彼女に差し出した。
リザは呆気にとられたままそれを受け取り、大総統と呼ばれる目の前の男をじっ
と見つめた。
何も危険な兆候は見受けられなかった。
この恐ろしい5刀流を操るホムンクルスは、意外にも日常では笑顔を絶やさない。
隻眼スマイルで退室をうながされ、リザは仕方なく敬礼を返してドアへと向かっ
た。
だが、しかし。
ややあっけないことには、リザはすぐに国家元首の笑顔の裏の風景を知ることに
なるのだった。
閉める直前のドアのすき間から、ブラッドレイがそそくさとティーポットの中身
を捨てているのが見えたのである。
彼女はようやくすべての事情を悟り、少なからず愕然と立ちすくんだ。
(……へたくそ、と言いたかったのね……)
ある意味、職務能力を無能と判定されるよりも屈辱的なことのようにも思えた。
憮然とした表情でドアをきっちりと閉めてから、ふと手渡された書類に目をやる。
「…アメストリス紅茶紀行…極上ティータイムを愉しむテクニック…」
数秒ののち、彼女の整った歯並びの合間からかすかに噛みしめる音がもれた。
思わずくしゃくしゃとそれを丸めたくなる衝動を押さえながら、リザは靴音も高
く命じられた場所へと歩き出した。
目隠しされてもたどり着けるほど熟知したその場所…ロイの執務室へと。
「リザ!!なんだなんだどうしたんだ!?お役御免か!?」
今の今まで机に伏してうたた寝をしていたようすを如実に顔に刻みつつ、部屋の
主が嬉しげに飛び上がる。
仏頂面でつかつかと歩み寄り、黙ったままロイに書類を突き出してから、リザは
頬をふくらませてみせた。
「残念ながら、これも任務です。馬鹿馬鹿しい」
「任務?逆刺客だなんてことはないだろうな」
「…ふざけてますね……本当に、誰もかれもふざけすぎです!」
「冗談だよ何を怒ってる。閣下はどうしたんだ?まさか、いじめられて飛び出し
て来た訳じゃあるまい?…もっとも、いじめているのは君の方かも知れないが」
「大佐…あの方は、色々とあなどれない方ですよ。油断は禁物です」
「やはり裏があったか…。具体的にどんな風だ」
「…説明にも困るほどです」
「なに?」
「あの…大佐はご存じでしょうか。…ホムンクルスという人種は、例えば五感な
ども人間と同じなのですか」
「うーん…。あのラストという女の言葉を信じれば、人間と変わらないようだっ
たが」
「味覚に関して言えば、ホムンクルスは人間よりも数段すぐれているようです」
「は?味覚?」
「何でもありません!いいんですもう」
「怒ってるのかリザ」
「知りません!」
ロイは訳がわからないというジェスチャーで受け取った書類に目を落とし、数秒
間それを凝視してから眉間に深くたてじわを刻んだが、やがて表情を戻すと今度
はにんまりと微笑んだ。
机にばさりとそれを放りだし、元上司は元部下の背をやさしく押した。
「この時間に君をここに使いに出すなんて、閣下は第六感の方が冴えてるんじゃ
ないのか。ほら、久しぶりに2人でランチといこう」
「そんな!そこまで閣下が…」
「まぁ確かに食えない人だが…この際、ご好意に甘えて君の所有権を行使させて
もらおう。もっとも、閣下にそれを譲渡した自覚はないけれどね」
「でも大佐!あとあと困ったことでもあったら…」
ロイは今しがた届いたばかりの書類を指さして言った。
「伝言を読んでないのかリザ?」
「…伝言?」
リザははっとして紅茶の指南書に目を落とした。
ブラッドレイの豪快な筆致で、余白にはこう書かれていた。
元副官を鍛錬すべし。休日を返上して監督せよ。
「直々の命令とあらば仕方がない。次の休みには夜を徹して君の紅茶修行につき
あうよ」
「…ふざけすぎです…どんな裏があるか分かったものじゃありません!」
「ま、それはそうだな。君の身体のどこかに超小型盗聴器でも付いているとか」
「…えっ?」
律儀にも真顔で自分の服を調べ始める彼女を見て、ロイは苦笑した。
まったくもって、可愛いと言うほかはない。
あの突然の異動から一週間…。
勤務時間外では普通に連絡を取り合えるとはいえ、勤務中の彼女がこんなにも可
憐で微笑ましいことをもう新鮮に感じてしまうとは、己の忘却能力が嘆かわしい。
ふと衝動にかられて、ロイはいきなり彼女の腰を抱き寄せた。
「…大佐!…なにをし…」
「しぃーっ。見つけたよ、盗聴器を」
「ど、どこですか!?」
「動くな。いいか、声を出したら閣下に筒抜けだぞ」
「……やめ…んっ…」
「そんな艶めかしい声は駄目」
「……」
無音の口づけは、妙に甘く初々しい食感がした。
やがて彼女の肩に額をあずけたロイは、ふと幸せそうに鼻をうごめかした。
「…紅茶の香りがするよ」
リザは苦笑して元上司の背を抱きしめた。
彼女もやはり感じ取ったのだ…通い慣れたはずのこの部屋に、たった一週間で新
鮮さを覚えてしまった危機感を。
「あの部屋にずっといたら、いつかその香りが染みついてしまいそうですよ」
「許しがたいな。私に縁のない香りが君に染みつくなんて」
「なら…染みつく前に助け出して下さい」
「そうしよう。でもな」
「?」
「…血の香りじゃなくて良かった」
「大佐…」
しばし身動きをためらう彼らの上に、間もなく午前終業の鐘が響き渡った。
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「しかし、閣下…本当に盗聴器もなしに野放しにしてよろしいのですか」
ブラッドレイはじろりとシュトルヒを射た。
「おまえは耐えられるのか?永遠に続く彼らの睦言にだ」
「は……は!?…睦……睦言…!?」
みるみる頬を朱に染め、耳と頭上から水蒸気を吹き上げる部下を一瞥してから、
ブラッドレイは満ちたりた様子で究極の美茶をすすった。
来週…彼女に少しでも進歩があったら言ってやろう。
私の部屋で花嫁修業とは、なかなかいい度胸じゃないかね。
- FIN. (2006年5月)-
最後まで読んで下さってありがとうございました。
ぜ〜ったいあり得ない!という和み系ブラリザです。
ご覧の通りの捏造設定オンパレードですが…どうぞ
お見逃し下さいませねー。閣下が紅茶をすする姿が
何だか意外でユーモラスで、その辺から妄想がどん
どんエスカレートしていってしまったのでした。
錬金術で茶葉を改良っていうのはバイオですね(笑)
キメラ技術ってバイオみたいなものかな、と思って。
また、管理人は紅茶好きですが素人ですので、文中の
紅茶の淹れ方は信じてはいけませんよーほんとに!
きっと閣下は本格茶葉好みなので、余計なフレイバー
よりも茶葉の質を重視するタイプなんでしょう。ええ。
イシュ編が終わって現実に戻るのが怖いですが、
それまでしばしお楽しみ頂けますようにv
(追記:↑2年後の本誌80話でまさか和み系ブラリザ
が実際に読めるとは想像もしてませんでした;びば!)
