「まぁすてき…透明度ナンバーワンの湖、マシュウ湖ですって!」
感激しきった声に、ふと新聞から目を上げた。
離れたテーブルで雑誌を繰っていた彼女は、ほぅと感嘆の息をもらしてページに見入っている。
「えっどれですか? 僕も見たい!」
すぐさま小さな姿が駆け寄って彼女の肩越しにページをのぞきこむ。
普段それほど熱心に雑誌など眺めない彼女を知っているプライドも、その感激した声を珍しく
思ったのだろう。
「わぁ…これですか、おかあさん?」
「ええ…マシュウ湖と言って、リヴィエラの北の方にある小さな湖らしいの」
「すごく青いですね!」
「そうね。アメストリスでいちばん透明度の高い湖なんですって。そう書いてあるわ」
「きれいだなぁ」
「ほんとうね…。騒がしい観光地は好きじゃないのだけど、ここは静かそうなところだわ」
「僕、このまえネッシーの本を読みました。ここにはマッシーがいるのかなぁ」
「ほほほ…セリムったら。それはどうかしら」
がさがさと新聞を畳んだ。
その湖の名前にはどうにも聞き覚えがなかったが、そこまで彼女が気に留めるような場所とは
どんなものだろうと気になった。
結婚以来35年が経とうとしているが、軍に身を置いて忙しく駆けてきた私は、情けなくも今ま
でほんの数えるほどしか彼女をよその土地に連れ出してやれなかった。
そしてわれわれの家族ごっこの終演は、いつの間にか次の春にまで迫ってきていた。
「この国の最高責任者たる私をさしおいて、地理の話とはなんだね」
ソファを立って近づくと、彼女はことさらに驚いた顔をしてみせた。
「あら珍しいこと。朴念仁のあなたが私たちの話に加わってくるなんて」
…こういう言い方をするということは、最初から私に話を聞いてほしかったのだな。
素直にそう言えばいいものを、やれやれ女の習性とは小難しい。
「相変わらずひどい言われようだ。ほう…それがその湖か」
「ええ、西部の宝石と呼ばれているそうよ。…あなた、この国の大総統なのに知らないの?」
「む…(ごほん)そんな小さな湖のことまではトップの耳に入ってこないものだ」
「呆れたおとうさんねぇ、セリム」
顔を見合わせ、プライドと彼女はくすくすと笑い合う。ふん、知らぬものは知らぬ。
視線の先で、神々しいまでに碧い水をたたえた湖水の写真が目を引いていた。
「…美しいな」
「そうでしょう?」
ここに行ってみたい…。我々は瞬時に同じ思いを共有していた。
家族というのは自動的に共通の無意識で繋がるよう暗黙にプログラムされるものなのか。
この家に来た当初はそれこそ見せかけだけの「良い子」だったプライドさえ、今では本心から
我が家の集団思考に染まるようになっているのにはまったく驚かされる。
とはいえ、一種の共犯者である私とプライド双方のためらいをまるで見透かしたように、家族
の共有した思いをはっきりと口にするのは常に彼女の役目なのだったが。
「…ねぇあなた」
「ん?」
「暖かくなったら…次の春、何日かお休みが頂けないものかしら?」
「春か…。春は東で大規模な演習があるのでな…」
「聞いてますわ。だから、そのあとで」
「演習の後で?」
「ええ…ここへ行ってみたいの。久しぶりに家族そろって旅行に出られないかしら」
「…そう…だな…」
さしもの私も胸郭のあたりに違和を感じた。
隣りにいるプライドもわずかに身をこわばらせたのが分かった。
東部での合同演習は「約束の日」の前日に定めてあった。
それは、我々が家族でいられる時間は演習に出かける時までという意味に他ならない。
「いや…演習のあとは何かと忙しい。それなら演習の前になんとか算段してみようか」
「まぁ…嬉しいわ!」
ぱっと顔を輝かせて彼女は手を叩いた。
ふと、そういう時の表情は35年前と少しも変わっていないなと思い、私は目を細める。
そう…35年だ。
顔のしわを数えれば、お互い年を取ったものだとしみじみとする。しかし同じ歩調で歩んでい
るかぎり、彼女と私の間の時間だけは止まっているのと同じなのだ。
この笑顔を、あと何度見ることができようか。
「セリム、久しぶりに家族そろって旅行に出られそうよ」
「でも…いいんですかおとうさん?お忙しいのでしょう?」
「あら、男に二言はないものなのよ。ねぇあなた?」
「あ、ああ…そうだな。はっはっは、いい機会じゃないか。家族水入らずで楽しもう」
「わぁーい!嬉しいな、僕いっぺん釣りをしてみたかったんです!」
「まぁこの子ったら…ほほほ」
「って改めて聞きますけど。いいんですかあんな安請け合いして」
ややあってから私を自室に招き入れると、プライドは上目遣いに私を睨め付けた。
確かに少々軽率だった気もして一瞬たじろいだが、気を取り直す。
「そう言うな。今度ばかりは仕方あるまい…お前にも分かっているはずだ」
諭すように言うと、ドングリまなこがしゅんとしおれて下を向いた。
「約束の日」を前に、彼女に何とか良い思い出を残してやりたい…その思いは我々の計画とは
真逆なまでに矛盾していながら、それでもなお打ち消してはしまえない強さでずっと胸の奥に
居座り続けていた。
恐らくはプライドも同じだったことだろう。
「確かに今から予定を空けるのは大ごとだが……まぁたまには最高権力者としてのわがままを
振りかざすのもいいだろう。その中身がたった2,3日の休暇というのは情けないかぎりだが。
はっはっは…」
「…ラース」
じと〜という擬音が聞こえそうな目で、再びプライドが冷ややかに見つめていた。
「まだ何かあるのか?」
「君、ホークアイ中尉の存在を忘れてるでしょう」
途端に冷水を浴びせられたような衝撃を感じ、私はその場に固まった。
「む…そ、そうか…中尉という難関が残されていたか…うかつだった…」
「彼女には私の正体も君の正体も、何から何までまで知られているんですよ?約束の日を前に
ホムンクルスたちは飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ、自分たちは国家元首のサボリの尻ぬぐい…
などという事態を受け入れる人物ではありません。まず許可をくれませんよ」
「よくもそこまで身もフタもない言い方ができるなおまえは」
「ふ…ちょっと彼女の視点で想像してみただけです」
斜に構えた態度が気にさわり、私は矛先をプライド自身に向けてやった。
「肝心のおまえ自身の意向はどうなんだ。行きたいのか、行かなくても気は済むのか」
「べ、別に?僕はこの家の子供だから、両親が決めたことには従いますよ。それだけです」
「ほう…では申し訳ないが、今回は我々夫婦だけで行ってくることにしよう。コブ付きでは何
かと興が削がれる」
「なっ…それがここまで息子役をせっせと演じてきた者への仕打ちですか?ずるすぎる!」
「なるほど、二人で行くのはずるいのか。それが本音だな」
「あっ…違…」
冷酷に鎧っているようで隙があるあたりは、なかなか本物の子供らしくて興味深い。
ばつの悪そうな表情を観察して少し楽しんだが、私の前でことさらに「人造人間の優位」を誇
示したがるプライドの心情は、ほろ苦くもよく理解できた。
それほど我を忘れるまでに、彼女の前では純粋に「子供」としての本質に戻ってしまっている
ということなのだろう。だからこそ私の前では照れ隠しも兼ねて、人間に対し必要以上の冷淡
を装うのだ。
その姿はおおむね微笑ましかったが、時として憐れでもあり、不憫ですらあった。
「まぁいい、それは冗談だ。心配せずとも連れて行ってやろう」
「…何だかムッときますね」
「ともかく大事な交渉だ。明日はホークアイ中尉の影に忍び込むのはやめておけ」
「ふん、仕方がない。じゃあ犬と遊んでいよう」
「……犬?」
「中尉が飼ってる犬です」
「……なに?」
「最近ようやく私に慣れてきたみたいでしてね♪ふふふ」
「……」
子供とは本当に、親の目の届かぬ所で何をやっているか分からないものなのだな。
兎にも角にも、かくして夜は更けて、日は登った。
仮面の哀しみ
その日。
普段よりもいささか早めに執務室にやってきたブラッドレイが、仕事の前にはついに要件を切
り出せず、そのままじりじりとしながら休憩のお茶の時間を待ち、用心深く補佐官の顔色をう
かがいつつも、務めて何気ないそぶりで話を切り出し始めたときのリザ・ホークアイの表情の
変化はまさに「見もの」という他はなかった。
彼女はまず一瞬だけぽかんと呆れた様子をし、それからキリリと顔を引きしめ、徐々に口の端
をつりあげて見事な微笑みをつくり、目にはその微笑みと反比例する冷酷そのもの光を宿して、
まっすぐに上司を射たのだった。
「何とも心あたたまるお話を聞かせて頂きました。素敵ですね…国軍の二大兵力を総動員する
大きな演習のために我々が死ぬほど忙しく駆け回る中、人類の敵であるホムンクルスは湖畔で
ピクニックに興じたいので、この超過密スケジュールからそのための自由時間を捻出せよと…
そうおっしゃるのですね?閣下」
華麗なまでの抑揚をともなって執務室に響きわたった長セリフに、ブラッドレイは目に見えて
たじろいだ。
「いや…ははは…ワガママは百も承知なのだがね、中尉。その…そう、家内が春の演習のあと
で一家でのんびりしたいと言い出してな。…それなら演習の前にと、私が提案したのだよ」
「まぁそれはそれは。閣下は奥さま孝行でいらっしゃいますね」
「もちろん…勝手な言い草だというのは分かっているがね」
「正しい認識かと存じます」
「ははは…自覚は…しておるよ」
「でしたらもう一つご自覚下さい。このお話は不可能です」
「……う……」
世に女ほど、笑顔の裏でどれだけ残酷なことを考えているか分からない生き物があろうか。
それを学んだだけでも結婚した意味はあったと、本気で実感するブラッドレイであった。
しかしだからといってこのままこの場を引き下がるわけにはゆかない。
「そこを何とか…ならんだろうかね、中尉」
「申し訳ありませんが何ともなりません。僭越ながらご提案いたしますが、奥さまに「約束の
日」のことをご説明なさってはいかがでしょう?」
「……む……」
痛いところを突かれたが、なおもブラッドレイは食い下がった。
「後生だ。最後の権力者ごっことして無理を通してはくれまいか」
「またそのお話ですか」
リザの眉のあたりがぴくりと反応する。
「こんなことを言ってはまるで泣き落としのようだが(いや実際泣き落としなのだが)…私は
この地位に就いて以来、実はただ一度として自分のために権力を使ったことがないのだよ」
「…そう申されましても…」
「すべては用意されたレールの上……砂上の権力にすぎなかった」
「……」
「頼む。正真正銘、最初で最後の嘆願だ」
「…そ、そんな…」
恥も外聞もなく国のトップに両手を合わせて拝まれ、リザは呆れかえると同時に戸惑う。
嫌でも、あの日の会話が脳裏によみがえった。
公然とその椅子を狙うロイ・マスタングの腹心である彼女にわざわざ、妻だけは自分で選んだ
と告げた男…。
そのひとことがどれほど雄弁に彼ら一家の真相を示唆し、どれほど彼女とロイに衝撃を与えた
かを、もしかすると当の本人は気付かぬままかも知れない。
「ふ…もちろん家内への偽善と言われても言い返せん。私とて自分の立場は心得ている」
「……」
「だが君たち人間にどう誤解されようとも、今はもう矜持だの何だのと言っている場合ではな
い。とにかく我々一家にはどうしてもその2日間が必要で、それには補佐官である君の尽力に
頼るほか、もう他に手だてがないのだよ」
「…でも…」
「約束の日…。果たしてその日、何が起こるのか。一日がどのように終わるのか。ホムンクル
スである当の私にもまだ見当さえつかないのだがね。ただ一つだけ確かなのは、われわれ三人
が家族でいられるのはその前の日までということだ」
「……」
「君になら理解してもらえるのではないかね」
「……」
卑怯なやり口だ、とは思ったが、リザもまたこの一家の秘密を秘密として共有している以上、
自分だけがその事情を理解できるのだという立場はしぶしぶだが心得ていた。
目尻のしわが見ている者の目にやさしく沁みる、少女がそのまま年を重ねてしまったような大
総統夫人の顔が浮かんだ。
あの人ね…。あの人ったらもう…。ごめんなさいねあの人のせいで…。
口にする言葉という言葉に夫への愛があふれていたのを、リザは思い出す。
会うたびに本来の要件から即座に話が脱線し、気がつけばいつも彼女の若かりし日々の惚気を
聞く役に回されていたものだ。
そしてそれを受け止めながら過ごして来たのであろう、目の前の男の大きな余裕…。
比較すべき対象ではないと知りつつも、つねに互いの前で感情を殺しながら生きてきた自分と
ロイとの、平穏とは言い難い関係とを比べずにはいられなかった。
リザの心の中で、かすかに何かが動き出す。
「そういえば、あの子は……セリム様は今、ここにいるのですか?」
足元を見下ろしながら尋ねると、ブラッドレイはすぐにその意味を察した。
「プライドかね。いや、あれはいま君の影の中にはおらん」
「では、失礼ですが……あの子も一緒に行きたいとせがんだりするのでしょうか」
「もちろんだ。家内の前でそれはもうはしゃいでいた」
「…はしゃいで…ですか…」
そうなのだろう、とリザは思った。それはきっと嘘ではないのだろう。
官邸へと書類を届けるたび、呼び出しのたびに見てきた、あの恐ろしい子供が母親にまとわり
つく仕草…。
自分を監視するためにその場に同席していると知りつつ、母親に触れているほんの一瞬の間だ
け、確かにあの子供の殺気がやわらぐのをリザは敏感に察していた。
「セリム…いや、プライド…。あれも複雑な身だ。子供の姿、そして子供の魂のまま、すでに
300年あまりを生きている」
「……300年…!?」
ごくりと唾を飲むリザだった。
本物の化け物、という言葉が脳をよぎり、改めていつかの渡り廊下での恐怖がよみがえった。
「我々の養子となったのはほんの数年前、あれにとってみればつい最近の出来事だ。しかし、
わずかな間にあれは変わった…。君たち人間の目にどう写るのかは分からんが、家内の前でだ
け、あれはひとりでに元の子供の本質に戻っているのだよ」
「……」
「もっとも、それは当の本人にも自覚があるのか分からない話なのだがね」
なぜ今、そこまで手の内を明かしてみせる?
自分の人間としての情を利用する卑劣なやり方だと分かりすぎるほど分かっていながら、それ
でもその的確すぎる効果にリザはじっと耐えていた。
そう、相手が言外に繰り返しているのは、大総統夫人は決して偽りの幸せの中で生かされてい
るわけではないということ。
そしてそのいくばくかの休日が、ホムンクルス本来の目的とは関係のない休暇だということ…
つまりそれは、リザがこの嘆願を一蹴すれば確実に一人の人間が…大総統夫人が悲しむという
ことだった。
答えはすでに一つしか用意されていなかった。
「…分かりました。私の一存で…何とかスケジュールを調整してみます」
「……本気かね?」
わずかに瞠目したブラッドレイを、リザは鋭く見据える。
「ただし、どうぞお間違えなきように。閣下やあの子のためにではありません。ただ、奥さま
のためだけに…。それなら私も尽力いたします。いいえ、せざるを得ません。私は…私は人間
のために戦う立場なのですから」
ゆっくりと椅子の背にもたれかかり、ブラッドレイは安堵の表情で目をつむった。
椅子のきしみと安堵の溜め息とが重なってリザの耳に届く。
「そうか…分かってくれたのだね。中尉、恩に着る」
「しわ寄せで地獄の連続夜勤になることはお覚悟下さい」
「はっはっは…なんの、その程度は承知の上だ」
一瞬だけ和やかにゆるみかけた空気は、すぐにリザの敬礼によって再び引き締められる。
「早速ですが、事は急を要します。ただちに各部署に掛け合いますので…失礼致します」
「うむ。全権を君に託そう」
規則正しい靴音を残して辞した補佐官を見送り、ブラッドレイは右目で淡く微笑んだ。
なぜあの時、妻のことを彼女にだけ不用意に漏らしてしまったのか…
それは自分の奥底に残る人間の部分が、彼女の中の揺るぎない人間愛を無意識に信頼した結果
だったに違いないことを、その時ようやく確信できたように思えたのだった。
まずどこから攻めるべきか…。リザの頭脳は瞬時にフル回転を始めていた。
今日は金曜日。明日になれば各機関は休みになり、動かすためには月曜まで待たねばならない。
2日間をまるまる失う前に、今できるところから働きかけておかなくては…。
他国との外交関連の予定だけは不動のままで、どこを省略する? どこを詰める?
そしてこうなっては無論、主席補佐官のシュトルヒを疎外しておくわけにはゆかないだろう。
大総統がお忍びで休暇となれば、密かな身辺警護も必要になってくる。
(ともかくまずはあの三白眼に連絡を取るのが早道かしら…)
と、その時だった。
ふと前方に一瞬の殺気を感じてリザは一歩後じさる。同時に手がホルスターに伸びた。
「……誰!?」
「また会いましたね中尉」
「……セリム様…いいえ、プライド……」
窓のない暗い廊下の薄闇に、その子供はいつのまにか立っていた。
我知らず、初めて相手の正体を看破した時の恐怖がよみがえりそうになる。
リザはぐっと拳を握りしめてこらえ、自分よりもずっと低い位置にある小さな顔を見据えた。
「何の用かしら?いくら大総統閣下のご子息でも、ここは子供が居ていい場所ではないわ」
「…例の件。もう彼から聞いたのでしょう?」
それこそたった今聞いた話だと、リザはすぐに見当をつける。
「ええ。ついさっき、閣下から」
「あなた、どうするつもりですか?」
「今から閣下のスケジュールを調整します。国家規模の大変な仕事よ。邪魔をしないで」
「…それ、本気で言ってるんですか?」
当てが外れたように驚いた視線を、リザは思い切り皮肉な表情でにらみ返した。
「あらなぜ?あなただって休暇がほしいのでしょう?」
「…だって、我々の正体を知っているくせに」
「ええ知ってるわ、ホムンクルス・プライドさん。でもどうぞ間違えないで。これはあなた方
二人のためじゃない。奥さまのためよ。私は人間のためにしか動かないわ」
「…こちらに付きませんかと言ったら断ったくせに」
「別にあなた方の駒として動くわけではないもの」
もはや臆さないリザの態度が気に入らなかったのか、偽りの子供はなおも食い下がった。
「そうか…読めました。我々の留守を利用してマスタング大佐となにか画策する気ですね?」
「大佐は関係ないわ。私はただ、補佐官として大総統閣下の休暇のためにスケジュールを変更
するだけよ」
「……」
言葉に詰まった相手に、リザは意地悪く畳みかけた。
「どうしたのセリム様。嬉しくないはずはないでしょう?それとも、おかあさんが好きなのは
全部演技なのかしら」
「当たり前です。すべて演技ですよ」
「そう…やはり彼女は利用されているのね。いつまで生かしておく気なの?」
「……」
「あら、殺気が増したわね。怒った?」
「…中尉。調子に乗りすぎると…」
「閣下から聞いたわ。おかあさんの前で大はしゃぎしてたそうじゃない」
「……!」
ハッとして悔しげに唇をかみしめた相手のばつの悪そうな顔を見て取り、リザはそこで初めて
あることに気付いた。
まさか、この子…。
「あなた…本当は私にバカンスを邪魔されると思って、脅してでも言う通りにさせるために来
たの?」
「……」
「そうなのね?」
リザの声にかすかな憐れみが混じったと悟り、プライドは次の瞬間カッと頬を紅潮させた。
「どういう意味です?あなたごときに私の目論見など分かるはずがない!」
「そうまでして…」
彼女と過ごす時間を守りたいのか、という言葉を、リザは驚きの中で飲み込んだ。
先刻のブラッドレイと同様、為すすべもなく複雑にねじれた矛盾の中で、どうしても譲れない、
そこだけは濁りのない感情を垣間見たような気がしたのだった。
「人間風情が想像でものを言うのはやめて下さい!私はただ…」
今度こそ有無を言わさぬ口調で、リザは厳しく相手をさえぎった。
「おどきなさい。急がないと間に合わなくなる…週が開けてからではもう遅いのよ」
「…ホークアイ中尉!?」
小さな影の脇を駆け抜けてから、リザは背後に向けて叫んだ。
「私の機嫌を損ねない方がいいわ!おうちに帰りなさい坊や!」
月曜。
昼下がりの執務室で、ブラッドレイは感嘆の表情を隠さなかった。
「……さらにこの日に予定されていた式典は2日後に…その日の視察と同時に行います。これ
なら関係者の滞在時間が長くなるだけで、スケジュール自体を動かす必要はありません。通達
もすでに済んでおります」
「……」
「そして、夜行列車で次の朝までにはセントラルへ…。外交会談は動かせませんが、会食の時
間をギリギリまで削って午後には南方司令部へ発っていただきます。1日早まりますが、南方
の上層部と軍関係会社の懇親会はこの夜に。ホテル側とは交渉中ですが、恐らく金銭面で折り
合いをつければ大事ないかと」
「……」
「以上、これで何とか2日だけですが……スケジュールが空いたことになります」
ほぅ、という溜め息とともにブラッドレイは2度3度と首を縦に振った。
「なるほど…。敏腕と謳われるマスタング大佐の懐刀、ホークアイ中尉の真価を初めて間近に
見せてもらった。彼の異例の昇進の影には、君の手腕が少なからず働いていたわけだな…」
「いいえ。お言葉を返すようですが、それは閣下の見当違いです」
「ははは…謙遜かね。見事だ、中尉。感謝のすべもない」
整然と組まれた新しいスケジュール表を卓上に落とし、ブラッドレイは満足したように深く目
をつむった。
やれやれ。結局は私の権力ではなく、妻の人徳が彼女を動かしたことになるのだな。
まぁそれでもよかろう…お陰で我々は2度とは得られぬ特別な時間を贈られたのだから…。
軍靴を見つめていた視線を上げ、リザは意を決したように相手を見た。
「閣下…。一つだけ混み入った質問をお許し下さいますか?」
「構わん。言ってみなさい」
リザは息を整えてから一気に言った。
「あなた方お二人は、約束の日に奥さまをどうするおつもりなのですか」
「どうする、とは?」
相手が少しもたじろがずに言葉を返してきたことに、むしろリザの方がたじろいだが、構わず
言葉を接ぐ。
「分かっておいでのはずです」
「……ふむ。それはまた、即答しかねる質問だな」
「あの子は……セリム様は以前、私にこう言いました……我々の側に付かないか、と。それで
思いつきました。なぜ奥さまにすべてをお話にならないのです?真実を打ち明けて、そして形
だけでも奥さまをあなた方の仲間に…。そうすれば奥さまだけでも、あなた方が人間に加える
凶事から救えるのではありませんか?」
途端に隻眼に皮肉な光がこめられた。
「ほう。気に入った人間だけはお情けで助けろと?よもや君の口からその種の意見を聞こうと
は思わなかったが」
「まだ間に合います。この国を出て、他の国に避難していて頂くことも…」
「それこそ君たち人間から見れば偽善以外の何物でもないのではないのかね」
しかしリザは取りあわなかった。
今こそ最も尋ねたかった問いをぶつけるチャンスだと悟ったのだ。
「閣下…。それでは人間が、奥さまの心が、あなたがたホムンクルスを変えてゆくことは結局
叶わなかったのですか?」
非難でも詰問でもなく、それはリザの本心からの切実な疑問だった。
ブラッドレイはふと彼女から視線を外し、窓の外を眺めながら他人事のようにつぶやいた。
「変えられたからこそ、だったらどうするね」
「えっ?」
「私もプライドも、彼女に変えられたからこそ今の状況を選択したのだとしたら?」
「…!」
予想外の回答に、リザは慄然と言葉を失う。
変えられたからこそ今の状況を選んだ、と?
「…少し喋りすぎたな。これ以上の答えを重ねる必要はあるまい。その資格は私にない」
「……」
「だが、ありがとう。中尉」
「…?」
「君もうちの家内を気に入ってくれたのだな」
向き直った最高権力者は、静かな笑顔を浮かべていた。
「…はい」
「思えば不思議な女だ。誰もかれも、猫もしゃくしも、あれにかかるといつのまにか丸くなっ
てしまう。彼女に誘われてお茶を飲んだが最後、あれのペースに巻き込まれて、気付いた時は
誰もが家族のようになってしまうのだよ」
「…はい」
苦笑で応えるほかなかった。それは聞きようによっては最大限の惚気にも聞こえたからだ。
「だから、われわれは巻き込まれたまま、最後までそのままでよいのだ」
「……」
リザは理解した。
彼らの「嘘」が、決して彼女のための「優しい嘘」ではないということを。
そして彼らの興じているのは家族ごっこではなく、どこにでもあるただの家族だということを。
「さて、申し訳ないがシュトルヒを呼んでくれるかね。君は今日はもうよろしい。せめてもの
半日休暇…には満たないが、取りあえずの謝礼だ。少し家でゆっくりとしなさい」
「は、はい…」
追い出されるように執務室を退出すると、にわかに疲れが感じられた。この2日間、まともに
身体を休めていないのだから無理もない。
他人の休暇を捻出するためには、自分の勤務外時間を犠牲にしなければならなかった。後悔は
もとよりないが、それでも一抹の理不尽さを思ってリザは苦笑する。
そして急激に青ざめた。
「……ハヤテ号……!」
あまりにも短い帰宅滞在時間ゆえに、リザは子犬の食事をうっかり失念していたのだった。
(ごめんね、ごめんねハヤテ……!)
息せき切ってアパルトメントの階段を上がると、両手で抱えた紙袋の中身がこぼれ落ちそうに
なる。リザは落ちかけたドッグフードの缶詰めを必死で押さえつつ、心の中で謝り続けていた。
鍵を回すのももどかしく勢いよくドアを開ける。
「ハヤテ号…!?ごめんね…!!」
しかし、そこには空腹のあまりうずくまる子犬の姿はなかった。
どきんと大きく心臓が打ち、半泣きの表情のまま、リザの視線は薄暗い部屋の中をさまよう。
するとその時、奥の方から元気に吠える声がした。
慌てて明かりをつければ、子犬は普段と同じように天真爛漫に駆け寄ってくる。
「ごめんね…ハヤテ号…!良かった…」
やわらかな毛並みに頬ずりして抱きしめる。
何てことだろう、ホムンクルスの頼みなどに奔走してあやうく大切な友を衰弱させるところだ
った…。耳元でクゥクゥとこそばゆく甘える声を聞き、リザは心から安堵した。
しかし、丸2日何も食べていないにしては子犬の身体は意外に細っていない。
ふと怪訝に思い、リザはハヤテ号の顔をのぞき込んだ。
(…口もとに…食べカス…?)
まさか、誰かが…。とはいえ、この部屋の合い鍵を持っているのはロイだけだ。
けれど当のロイは2日前から西部に出張していて、確か今日セントラルへ戻ってくるはず…。
リザは子犬を抱いたまま、不意に立ち上がってキッチンへと急いだ。
(…!?)
キッチンの床には、家に残っていただけの数の缶詰めが散乱していた。ハヤテ号はそのどれも
に口をつけたらしく、中身はどれも同じように減っている。
まるで泥棒に荒らされたような状況の中で、しかしリザの目は冷静に缶詰めの切り口と、かた
わらに無造作に落ちている円形のフタとを観察していた。
そう…。缶切りなどではない、鋭くて平たい刃のような何かですっぱりと切り落としたような、
そのあまりにも滑らかな切り口を。
(……まさか)
今はもう消えた頬の傷を思い出す。
小さな身体から無数に伸びた影のような触手はあの時確かに、ただそっと触れただけで皮膚を
切ったのだ。
「…ねぇ、そこにいるの!?」
思わず足元に向かって叫んだが、冷たいタイルの上に落ちた自分の影はごく淡く、何の気配も
感じ取れなかった。
リザの腕から床に飛び降りたハヤテ号が、いそいそと食事の続きを始める。
ふぅ…と大きく溜め息をついて肩をおろし、リザは複雑な笑みを口もとに刻んだ。
(私の機嫌を損ねるなと言ったせい…?)
それとも、あの傲慢な子供の精いっぱいの感謝のしるしなのだろうか?
ハヤテ号はさぞかし吠え立てたことだろう。野生の嗅覚を持つ動物が、あの種の禍々しい気配
に決して慣れ親しむはずはなかった。
何のためにこの部屋に侵入したのかを考えればゾッとしないが、空腹の子犬を見て何とかしな
ければと頭を巡らせた結果がこれなら、今度ばかりは大目に見てやらねばならないだろうか…
膨大な虚構の中に点々とする、ごくわずかな真実。
けれど、どれほど汚れた虚構の中でも真実は決して色褪せず、穢れの中にまぎれてはしまわな
いものなのかも知れない。
それは泥の中の砂金のように、ただひっそりと、誰かが拾いあげてくれるのを待っているもの
なのかも知れなかった。
(でもやっぱり玄関には、「影侵入厳禁」と明記すべきかしら)
眉を寄せつつ、新鮮な水を入れた皿をハヤテ号に置いてやってから、リザは先刻スタンドで買
ってきた旅行雑誌をテーブルに広げてみる。
身辺警護隊の配置のため、マシュウ湖の位置は執務室の地図によってすでに確認済みだったが、
どうしても実際の様子を知りたくなったのだ。
ホムンクルスの家族が興味を持つ場所とは、いったいどのような場所なのかを…。
(…あったわ)
思わず軽く息を飲む。
視線の先で、神々しいまでに碧い水をたたえた湖水の写真が目を引いていた。
- FIN. -
ここまで読んで下さってありがとうございましたv
またしても閣下とリザのロイアイ前提ほのぼの話です。
最初はコメディ調だったのに、あれれ?(^^;)
「仮面の哀しみ」シリーズも恐らく最後になりますが、
冒頭で御一家の会話が書けたのでちょっと満足(笑)
(ラストでロイが出張からまっすぐリザの部屋に…という
展開も考えていたんですが、ダラダラとするのでカット;
なかなかロイアイのラブラブが書けなくてすみません^^;)
セリムはハヤテ号が「慣れた」と思っていますが、でも
実際は嫌われてぎゃんぎゃん吠えられているのを、今まで
犬に接したことがないために誤解しているだけです(笑)
いちおう後日譚というか、「約束の日」から3、4年後に
閣下夫人のもとを訪ねたロイアイが、ハヤテ号の子犬を
小さなセリムにあげる…という続編も考えてたりします。
遠い遠い記憶の中で、犬と遊びたいなと思ったことを無意
識に覚えているといいな、みたいなv
書けるかは分かりませんが(苦笑)
閣下はきっとプライドが不憫で、この子だけは奥さまと
一緒に生き延びてほしかったと思うので…あえてその辺り、
原作には書かれてない心情をあれこれ妄想してみました☆
