眠らない背中
衣服が肌をすべって落ち、床でかすかな音をたてる。
闇の色のまなざしの前で身体のすべてを晒しても、
その夜「背徳」という2文字はわたしの頭をかすめなかった。
ふと、今にもこの手が幸せに届いてしまいそうな予感におそわれて、
わたしは急に息苦しくなる。
あると思っていた障壁など本当は何もなくて、
わたしたちは祝福されるのを待つだけの似合いの一組で…
そんな甘美な錯覚になす術もなく立ちすくむ夜が、わたしにもたまにある。
彼は決して、そういう瞬間を見逃さない人だ。
そしてわたしは一度として、そういう彼を拒めた例しがなかった。
くちびるの起伏を確かめ合うような、静穏で安らかなキス。
それが離れると、彼はゆっくりと楽しげにわたしを蹂躙してゆく。
ひんやりと心地よいシーツに組み敷かれて、慣れ親しんだ指が思わぬ場所に
届くのを、目を閉じて待つのは女の秘めた幸せだ。
愛撫はいつも優しくて、彼はわたしを焦らすのがうまい。
身をよじれば腰を抱き、背を反らせば花蜜の奥へと。
顔をそむければ、とうに鮮やかに色づいた胸の先端を口にふくんで…
そのあたたかな舌の動きにどうしようもなく甘い吐息をもらしてしまう時、
不思議とよみがえるのは遠い母親の記憶だ。
いいえ、彼女の乳をふくんだ記憶などかけらも残ってはいないのに、
悦びのめまいの中で彼は確かにわたしの赤子になっていて、わたしはなぜか
その母親なのだった。
胸の上の黒髪にそっと指をからめれば、死にそうなくらい彼を愛している自
分を知って、思わず声を放って泣きそうになる。
ああ…なんて救いようのないわたしたち…
どんなに距離を置こうとつとめても、またこうして一つになってしまう。
これは業?
いっそ潔く、兄妹としてでも生まれていたらよかった。
それなら軽々と背徳の罪を背負って、堂々と、苦もなく幸せをあきらめるこ
とができたのに。
なぜ、わたしたちはあつらえたような男女なのかしら。
なぜ、こんな出来すぎた筋書きのままに愛し合う2人なのかしら。
どこにも、あまりにも無理がない。
隔てるものは一つの約束の期限だけ…
「…君は爪をのばし始めたんだな」
すこし自堕落に、気怠い身体を彼の半身に預けていたら、ぽつりと聞かれた。
「え?」
「ん、前より背中に爪がよく当たるような気がしたから」
「あ…すみません…痛かったんですね」
「いいや。髪の次は爪で…いい傾向だよ」
「…?」
「少しずつ、あの頃を忘れていってる証拠…だったらいいなと思って」
ちくりとした罪悪感が走った。
未来を明るく見つめる彼には悪かったけれど、わたしは苦笑して正した。
「…ごめんなさい中佐。実戦とか…必要な時に役立つように、何本かはのば
すことにしたんですが…やはり切りますね」
途端に、頭を預けていた彼の腕がごそりと動いた。
「なぁんだ…そうなのか。実戦のためだなんて…興ざめだなぁ」
本当にがっかりした声。やっぱり言わなければよかった。
こういう時のわたしのかわいげの無さは天下一品だと思う。
どうして、恋人にいい夢を見せる嘘の一つくらいつけないのかしら。
「…そんな風に言わないで。あなただって背中が痛いのは嫌でしょう?」
「嫌なものか。君がくれるものなら傷だって嬉しいよ私は」
「…マゾ」
「何とでも言うさ。まして、愛された証拠の傷ならね」
「…よくわたしの前で言いますね、それ」
「君の背中だって…私は思いのたけを込めて焼いたよ」
「…火蜥蜴のことですけど」
いけない。声の調子が変わってしまった。まだ、だめなのかわたしは…
案の定、彼はそっと腕を引っこめて、わたしに向き直った。
「まだ、重い?」
「…いいえ」
真剣な問いをはねのけるように、わたしは彼の胸に勢いよくすがりついた。
こんな場所で、こんな時にまで、夢から醒めていたくはない。
「そうじゃないの。もう…過去のことです。今はこれからのことしか見えて
ません。…あなたの背中しか」
大きな手が優しく後ろに回された。
よかった。後悔を読みとってくれたのだ。
「今夜の君はいつもと違うな…さっきも何だか激しかったし」
「…そんなことありません」
「いつもこんな風だといいとまでは言わないけど…たまにはいいな。素直な
君も」
「……」
「もっと私に傷をつけてくれていい。それで君の荷が軽くなれば本当にいい
のにと思うよ」
「中佐…」
どうしたのだろう。今夜はこの幸せが一瞬のものだという気がしない。
かつてないくらい、この人の身体が確かな存在に感じられてならない。
わたしはおずおずと、自分の両手も彼の背に回した。
「…あなたにも、何か彫りましょうか?」
「ああ、それもいいね」
快諾する彼に思わず笑った。冗談なのに。
…あ。…でも。
わたしはふと思いついて、満ち足りた気分が醒めないうちにと爪をたてた。
「痛っ…ほ、本当に彫ってるのかリザ!」
「ええ」
いつになく悪ふざけの虫がわたしを動かしていた。
狼狽する彼は可笑しくてかわいいと思った。
「っておい、そんな…爪で!?」
「大丈夫。わたしはもっと痛かったんですよ」
余裕たっぷりに、見えない背中に見当をつけ、ひと綴りの言葉を刻んでゆく。
「それとこれとは…いだだだっ!」
「はい、できました。これでお揃いです」
本当に悪ふざけ。でも、うまく書けたはずだ。
涙目になった彼が、半分怒ったような表情でわたしの顔をのぞき込んだ。
「…何を彫った?」
「ご自分で確かめて」
「見えないじゃないか」
「バスルームの鏡でどうぞ」
「まさか…火蜥蜴を?」
「いいえ…でも、同じくらい重いものを」
瞳がまともに出会った。
彼はわたしの心を測っていた。暗く真摯なのか、遊んでいるのかを。
途端にせつなくなって、自分から唇を重ねた。
本当の心はいつも肌からしか伝えられない。
分かってほしければ、気付いてほしければ、触れ合うしか方法はないのだ。
彼が呼応して、いつしかわたしたちはまたお互いに火をつけていた。
「…綺麗な髪だな。もう二度と切らせない」
「わたしの髪ですよ?わたしの自由です」
「いいや私の髪だよ。爪もね」
きゅう、と胸がしめつけられる。
自分の身体を自由にできないことが嬉しかった。
今夜はもうだめだ。幸せを全部使い果たすまで、好きにして…
わたしの求めを知り、つり気味の目尻がすっと細められて口元が笑った。
「待っていなさい。鏡を見てくるまでお預けだよ」
「…わたしも一緒に?」
「いい。1人で確かめたいんだ」
言いながら、彼はもうベッドを降りていた。
シーツをかきよせながら、わたしはくすくすと1人で笑った。
そんなに慌てないで。それ、当分消えないわ…
ドアの向こうに消える背中に、わたしの刻んだ文字が赤く光っていた。
重くのしかかるひとことを、あなたは喜んで背負ってくれるだろうか。
それを彫る資格があるのはわたしだけだと、もう一度あの約束を繰り返して
くれるだろうか…
この火蜥蜴が死なないように、その文字もずっと生き続ければいい。
そしてもしもわたしが先に倒れても、あなたを最後まで守り続ければいい。
夜ごと。眠らずに。
I love you …
- Fin. -
シリアスかつ甘々でハッピー…を目指してあえなく撃沈でしたが、
最後まで読んで下さってありがとうございましたv
時期設定は2人が東方司令部で8月号のあの約束を交わしたあと。
リザの髪がセミロングになるくらいの頃と思って下さい。
殲滅戦からは何年か経っていて、階級は大佐・中尉になる前です。
よく考えたらリザはかなりひどい事をしていますねー(笑)
もちろん、最後の一文が彼女が彫った言葉です。
きっと血が出てるよ〜これがほんとの所有印だよ〜(笑)
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